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坂本龍馬と宝福寺
龍馬と宝福寺
文久2年(1862年)3月、国を憂う思いから、龍馬は故郷の土佐藩を脱藩します。脱藩してからの龍馬は、捕縛の目をかいくぐり、勝海舟と出会い、海舟と共に海軍操練所設立の夢を抱き、土佐の若者たちを共に海舟の下に弟子入りさせると、順動丸に乗って、神戸から江戸に向かいます。その時、龍馬は脱藩浪人として「指名手配中」の身でした。文久3年(1863年)1月15日、季節はずれの時化により、龍馬を伴い海舟一行は、下田港に避難し、角谷に投宿していました。
時を同じくして、第15代土佐藩主山内容堂は江戸より大鵬丸にて上洛途上、ここ宝福寺に投宿していました。幕府軍艦奉行並・勝海舟入港の知らせに容堂は、是非とも酒席に招きたいと使者を遣わします。海舟もまたわずかな供を連れ、宝福寺に参上、謁見をします。海舟は、容堂に龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けてほしいと懇願します。容堂は、海舟が酒を飲めないのを承知で「ならば、この酒を飲み干してみよ! 」と切り返します。
すると、ためらうことなく朱の大杯を飲み干し、さらに赦免の証を求める海舟に、容堂は自らの白扇を取り出し「瓢箪」を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と記して、海舟に手渡したのです。この海舟の直談判によって龍馬はまもなく脱藩を許され、文字通り維新回天の活躍が始まります。龍馬は伊豆下田・宝福寺で、まさに天馬となって飛翔しました。そして一気に激動の時代を駆け抜けていきました。
龍馬と時代
天保6年(1835年)1歳
郷士の次男高知城下に生まれる。
嘉永6年(1853年)19歳
千葉道場に入門 浦賀に黒船来航
安政元年(1854年)20歳
江戸より帰国・川田小龍に啓発される
下田にペリー黒船来航 吉田松陰投獄
安政3年(1856年)22歳
駐日総領事ハリスが下田柿崎の玉泉寺に領事館をおく
安政5年(1858年)24歳
日米修好通商条約調印
安政の大獄
万延元年(1860年)26歳
吉田松陰処刑される
桜田門外の変
文久元年(1861) 27歳
土佐勤皇党に加盟
文久2年(1862年)28歳
沢村惣之丞と共に脱藩・勝海舟門下に入る
ハリス帰米 寺田屋事件
文久3年(1863年)
宝福寺にて山内容堂・勝海舟が謁見し、坂本龍馬の脱藩赦免
薩英戦争
元治元年(1864年)29歳
龍馬と海舟、下田で蝦夷地開拓の夢を語る。
坂下門外の変 生麦事件
慶応元年(1865年)31歳
亀山社中を設立する
慶応2年(1866年)32歳
寺田屋で幕史に襲われるが脱出しお龍を伴い薩摩へ行く
薩長同盟成立
慶応3年(1867年)33歳
亀山社中を「海援隊」とし隊長となる。「船中八策」を提案。京都、近江屋にて暗殺される。
大政奉還
明治元年(1868年)
新政府、船中八策を基にした「五箇条の御誓文」を発表する。
廃藩置県
龍馬関連資料

山内容堂
第十五代土佐藩主。「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と自らを称し、酒と詩をこよなく愛し、そして、歴史的な大偉業である大政奉還の建白を推進した人物。

勝海舟
幕府軍艦奉行並。長崎海軍伝習所に学ぶ。蘭学・西洋兵学を習得し、咸臨丸(かいりんまる)艦長として渡米。元治元年に軍艦奉行に就任し、神戸に海軍操練所を開く。坂本龍馬ら諸藩の志士を育成し、江戸城無血開場に成功した。

朱の大杯
龍馬の脱藩の許しを請う為に、海舟が飲めない酒を容堂にすすめられ、ためらうことなく飲み干した。その時使われた朱の大杯。(実物)

山内容堂 書『白扇の瓢箪』
容堂は自らの白扇を取り出し、「瓢箪」を描き、その中に「歳酔三百六十回鯨海酔侯(さんすいさんびゃくじゅっかいげいかいすいこう)」と記して、海舟に手渡した。 ※写真はそのレプリカ。

【検証1】遣倦録
宝福寺に滞在していた山内容堂に同行していた樋口真吉の日記。文久三年一月十四日から十七日まで「山内容堂」一行が天候不良のため船が出せず、宝福寺に宿泊していたことを記している。

【検証2】亡友帖
容堂侯との謁見当日の詳細が書かれている勝海舟の日記。江戸へ向かう途中、激しい雨風に見舞われ下田港に寄港。数人同乗していた門下生の中に、「坂本龍馬」だけが名前が記されている。※国立国会図書館所蔵

高知県立坂本龍馬記念館 館長様からの手紙
高知県立坂本龍馬記念館の目指すところは龍馬の顕彰と普及です。
(・・・中略)
そこへ、有力な応援団が現れました。下田市の「宝福寺」さんです。
(・・・中略)
覚悟の脱藩だったとはいえ龍馬は許されて以降、動きはにわかに活発になるのです。比例して時代の動きも加速度を増します。宝福寺が歴史の“基点”になったわけです。その会談の部屋がこのたび修復再現されました。龍馬記念館にとってもこんな喜ばしいことはありません。龍馬思想の強力な発信基地なのですから。
(・・・以下省略)
2007年11月15日 高知県立坂本龍馬記念館 館長 森健志郎

下田の街にそびえ立つ坂本龍馬

龍馬木像「風の夢」 場所:宝福寺境内
河津町にあるログハウスの建築などを手がけ、静岡県内で唯一「森の名手・名人」に指定された、天城カントリー工房の土屋宗一郎社長が、伊豆龍馬会の要請に応えて制作し、寄贈された木像です。
名称の「風の夢」は、龍馬が下田の宝福寺で脱藩の罪を許されてから一年半後の元治元年六月十八日、乗船した長崎丸のシリンダーが故障して下田港に停泊していた勝海舟の下に、引船の黒龍丸と翔鶴丸を率いて来た坂本龍馬が合流。下田の町に上陸して「蝦夷地の夢」を語り合っていた事に由来しています。龍馬は、幕府に次々と失われてゆく若い命を、蝦夷の開拓に向けることで未来に繋げたいと、海舟にその準備が整った事を下田で告げているのです。

龍馬石像「志の像」 場所:まどが浜海遊公園
平成22年11月27日除幕式。
全優石・静岡支部の皆様の尊いご寄付により、下田市に寄贈されました。石像は青石を使用。高さ3.45m(台座込み)。中国で4ヶ月かけて制作したものです。