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唐人お吉記念館

唐人お吉記念館
椿

宝福寺内に併設された「唐人お吉記念館」では、幕末の米国総領事・ハリスに仕えた「唐人お吉」の愛用品や、その生涯を知る資料を展示しています。

唐人お吉について

唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。

お吉年譜

天保12年(1841年)1歳

11月10日愛知県知多郡内海に船大工・市兵衛の次女として生まれる。

天保の倹約令

弘化4年(1847年)7歳

下田新田町村山家の養女となり、おせんに養われる。

安政元年(1854年)14歳

芸子になる。大地震・津波で生家にのがれる。

黒船来航  吉田松陰投獄

安政3年(1856年)16歳

船大工の鶴松と将来を誓う。

ハリス領事館おく

安政4年(1857年)17歳

お吉、鶴松との仲を裂かれ、領事館へ

日米通商条約

安政6年(1859年)19歳

ハリス江戸・善福寺へ

吉田松陰ら53名処刑

文久2年(1862年)22歳

再び芸子となる

ハリス帰米 坂下門外の変  生麦事件 

明治元年(1868年)28歳

鶴松と横浜で同棲する。

明治4年(1871年)31歳

鶴松と共に下田へ帰る。髪結業を営むが夫婦仲は悪かった。

廃藩置県

明治9年(1876年) 36歳

鶴松と別れ、三度芸子になり、三島金本楼に住む。

明治11年(1878年)38歳

下田に帰り、再び髪結いをする傍ら宴席に出る。

ハリス米国で病死

明治15年(1882年)42歳

安里良の船主・亀吉の後援で料亭・安直楼を開く

コレラ流行

明治17年(1884年)44歳

安直楼廃業

明治22年(1889年)49歳

乞食の群れに入る

明治24年(1891年)51歳

3月27日稲生沢川、門栗ヶ淵に投身する。

展示資料

墓
第十五代竹岡大乗住職

お吉のもとの墓

明治24年、第十五代竹岡大乗住職は、当時下田の稲生沢川の川岸に3日間投げ捨てられていたお吉の亡がらを引き取り手厚く葬りました。元のお墓です。

 ( 写真:第十五代竹岡大乗住職)

斉藤きち 19歳の写真

斉藤きち 19歳の写真

この写真は、安政6年、お吉19歳の時のもの。19歳といえば、ハリスと別れ、ハリスの名詞を懐に秘して、孤独の中で、もの思うお吉の心が偲ばれる。
当時、横浜で下岡蓮杖により写真を学んだ水野半兵衛が所持していたもので、本人のご好意によって当山お吉記念館に御寄付頂いたものです。

お吉の法名所載の過去帳

お吉の法名所載の過去帳

竹岡大乗は慈愛の心から法名を贈りました。「貞歓」と書いて「じょうかん」“まことのよろこび”という意味です。お吉の命日は、明治24年3月27日となっています。

支度金受領覚

支度金受領覚

奉行がお吉に与えた支度金25両の受領覚。又、年俸は120両にもおよび、当時ハリスの召し使い達は月に一両二分。町人にはとうてい手にできぬ大金でした。

お吉が使ったかんざし類

お吉が使ったかんざし類

お吉人形

お吉人形

第十代 御所人形師 伊藤久重 作。
昭和三十七年、二条城で開催された明治天皇五十年祭記念「幕末維新にみる開国文化展」にて幕末の偉人の一人として製作されました。人形の顔は、美人画の巨匠・前田青邨・伊藤深水・鏑木清方の3人がモンタージュを作り、顔を製作。髪の毛はお吉を敬い、京都祇園の芸姑たちが地毛を提供、使用。横の駕籠は、お吉が江戸に渡る際に実際に使用された駕籠です。

お吉に魅了された著名人

多くの著名人がお吉に魅了されました。

前田青邨

前田青邨

文化勲章受賞芸術院会員。
岐阜県出身。本名・廉造。梶田半古大和絵淋派の研讃と卓越した技術、独特の線描で歴史画・人物画に新境地を開き、多くの名作を遺しました。代表作:「洞窟の頼朝」(秋田県・高橋勇一氏より)

お吉物語(16画)

お吉物語(16画)

お吉の一生が描かれています。

新渡戸稲造

新渡戸稲造

新渡戸は、幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人「唐人お吉」の大の同情論者の一人でした。
『から竹(たけ)の浮名の下に 枯れはてし 君が心は大和撫子』
お吉思いのこの歌は博士の奥ゆかしい心情が偲ばれます。

お吉が淵

お吉が淵

お吉地蔵は、昭和八年八月に新渡戸稲造によって建立されました。地蔵尊の背面には、氏の母堂の命日にあたる昭和八年七月十七とだけ刻まれてありましたが、今では摩滅し、定かではありません。

井上剣花坊

井上剣花坊

近代川柳の祖
「アメリカの ぬらした袖も 土に成り」

西条八十

西条八十

作詞家。昭和28年(1953年)、歌詞の一節を書いたもの。

「駕籠で行くのは お吉ぢゃないか 下田港の 春の雨 」

山田耕作

山田耕作

オペラ「黒船」を作曲した。

写真はお吉の墓前で演奏する山田耕作氏。

歴代お吉を演じてお墓参りをした芸能人も多数いらっしゃいます。

お吉記念館資料

●民芸:市川猿之助・市川松蔦・市川門之助・梅村容子・北林谷栄・佐久間良子・太地喜和子・奈良岡朋子・坂東玉三郎・水谷八重子(五十音順)
●演歌:淡谷のり子・笹みどり・白鳥みづえ・島津亜矢・中村美津子・三笠優子(五十音順)

●講談:天津羽衣(お吉物語)・神田陽子

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